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お笑いコンビ・ココリコの遠藤章造とタレント・千秋が昨日28日(金)に離婚届けを提出していたことが29日(土)夕方、わかった。2人の所属事務所が発表した。
FAXには遠藤と千秋の連名で「昨日、離婚届を提出致しました。2人で話し合いを重ねた上で出した結論です」と綴られており、「皆様にはご心配をおかけし、いろいろとご迷惑をおかけしますことをお詫び申し上げます。
これからも、子供の今後の人生を第一に考えながら、新しい人生をスタートさせていこうと思います」としている。
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空前絶後のファイティング・オペラの今年最後のイベント『ハッスル・ハウス クリスマス・スペシャル part.2 江頭伝説最終章? 今日はバイト入ってませんSP』が12月26日(火)後楽園ホールにて開催され、この日プロレスデビューを果した江頭2:50が会場を魅了した。 ■江頭2:50らの「がっぺむかつく!」
エガちゃんおなじみのテーマソングが流れると、客席からもみくちゃにされながら登場。試合ではタイツに手を突っ込み股間から鉄拳を食らわす“テポドンウォッシュ(!?)"を披露するなどして、見事に江頭チームが天龍源一郎や川田利明らのチームに勝利。
試合後、さっそくマイクを手にしたエガちゃんは「痛かったよぉ〜!でも、伝説作ったぜ〜!」とガッツポーズ。「俺は地上波に乗らないドサ回り芸人。(今年番組に)お呼ばれしたのは『「ぷっ」すま』と『アメトーーク』だけだよ。『めちゃイケ』ももう少し呼んでくれよ!」と嘆き、観客の爆笑を誘った。
また、前回の登場時にお株を奪われた川田に「川田19:55には勝てない!今度はシングルだ」と挑発されて、「何度も言ってるが、俺は弱いぜ〜!次は川田19:55、天龍20:55のコンビで来いよ」と反撃。再戦を堂々と宣告した。
見事な戦いぶりにHGも舌を巻き「今日の活躍、凄いじゃないですか。私もRGも勝てませんよ」と完敗宣言。ニューリン様も「ハッスル軍に来てもいいよ。こういうの(キャラ)も必要」と歓迎され、江頭のハッスル軍加入が決定。キャプテン代行も命じられたエガちゃんは「俺は脇だから光るんだぞ?」とテレながら主張し、「来年はもっと日本を引っ繰り返すくらいの伝説を作ろうぜ!スケジュール真っ白なんだよ!」と意気込んだ。
最後に「3、2、1、ハッスルハッスル!がっぺむかつく!」をハッスル軍と共に披露し、恒例の「あ!バイトの時間だ!」(「バイト入ってませんSP」なのに)で足早に会場を後にした。




エガちゃんおなじみのテーマソングが流れると、客席からもみくちゃにされながら登場。試合ではタイツに手を突っ込み股間から鉄拳を食らわす“テポドンウォッシュ(!?)"を披露するなどして、見事に江頭チームが天龍源一郎や川田利明らのチームに勝利。
試合後、さっそくマイクを手にしたエガちゃんは「痛かったよぉ〜!でも、伝説作ったぜ〜!」とガッツポーズ。「俺は地上波に乗らないドサ回り芸人。(今年番組に)お呼ばれしたのは『「ぷっ」すま』と『アメトーーク』だけだよ。『めちゃイケ』ももう少し呼んでくれよ!」と嘆き、観客の爆笑を誘った。
また、前回の登場時にお株を奪われた川田に「川田19:55には勝てない!今度はシングルだ」と挑発されて、「何度も言ってるが、俺は弱いぜ〜!次は川田19:55、天龍20:55のコンビで来いよ」と反撃。再戦を堂々と宣告した。
見事な戦いぶりにHGも舌を巻き「今日の活躍、凄いじゃないですか。私もRGも勝てませんよ」と完敗宣言。ニューリン様も「ハッスル軍に来てもいいよ。こういうの(キャラ)も必要」と歓迎され、江頭のハッスル軍加入が決定。キャプテン代行も命じられたエガちゃんは「俺は脇だから光るんだぞ?」とテレながら主張し、「来年はもっと日本を引っ繰り返すくらいの伝説を作ろうぜ!スケジュール真っ白なんだよ!」と意気込んだ。
最後に「3、2、1、ハッスルハッスル!がっぺむかつく!」をハッスル軍と共に披露し、恒例の「あ!バイトの時間だ!」(「バイト入ってませんSP」なのに)で足早に会場を後にした。
<挫折した断酒>
1990年に芸人仲間の若井ぼん・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へ、やすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折した。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビス本人はその時点で、もうやすしを怒る気もなかった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。
ぼんちゃん・エビっちゃんありがとう。やすしより」とメモに書き残していった。エビスは「この手紙に、落ち目になった恨み辛みがあったんでしょう。酒を止める事が出来なかったのは、やっぱり意志が弱かったやと思います」と淡々とした表情でコメント。おそらく、断酒が出来ていれば、やすしはもっと長生きしていたであろう。尚、そのメモは、現在もエビス本人が保管している。
<芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか>
1991年に内田裕也主演の「魚からダイオキシン」で芸能界に復帰。
活動の場をVシネマ等に移す。学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。 1992年参議院選挙の比例代表区に風の会から立候補するも落選。直後の会見では「この党に投票しなかった国民は、アホや! ドアホや!」と吐き捨てた。その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明)を受けて重傷を負い表舞台からはすっかり身を引いてしまった。
この暴行事件でやすしは失語症となるが、驚異の回復力で復活をする。
1993年に「やすしを囲む会」を開いて、知人を含め100人は出席した。しかし、きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本興業からの圧力で彼らは出席出来なかった。
その後、1995年7月の京都府八幡市、石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして、元気な姿を見せていた。
<晩年、そして死>
1994年頃から、腹水が溜まるなど体調が悪くなり、肝硬変と診断され入院したが、無断退院したりとトラブルを起こした。
さらに酒も飲み続けた。そして1996年1月21日に、自宅で寝たまま意識を失い、救急車で病院に運ばれたが、既に心臓が停止しており、意識が戻ることなく急逝。享年51歳。 最後の言葉は妻の啓子さんと娘のひかりに対して「水を欲しい」と「ちょっと調子がおかしいから、病院に行かんとあかんなぁ。」と「明日病院に行くわ。」であった。
自宅で亡くなっていたと判断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。
解剖の結果、死因はアルコール性肝硬変と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなる前日、大量にビールを飲んで、吐き出し、妻の啓子さんが病院へ見てもらおうと思った矢先だった。
亡くなった翌日、関西のマスコミは元より全国に衝撃が走り、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に集まり、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。また、亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の前にビール缶が多く入ったごみ袋が写っており、亡くなる前日まで、ビールを多量に飲んでいた事が肝機能を低下させ、急死に至った原因であったことが裏付けられた。やすしは1986年に徳島で仕事中に吐血し、医師から「このまま飲み続けたら10年で死にますよ」と酒を飲むのを止める様に宣告されていたが、10年後にそれが現実になってしまった。
若手の頃に可愛がってもらった宮川大助・花子はうめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしの事を思い出して泣き出し、観客もほぼ全員が号泣し、やすしの死を偲んだ。また、木村政雄は「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てる訳にはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除すると述べ、のち正式に免除された。当時吉本の専務だった林裕章は「人の話を聞かんから、こうなった」と真剣な表情でコメントした。また、師匠の横山ノックは、やすしの遺体が安置された摂津警察署へ訪れ、悲しみの対面をし「最後まで警察の厄介になりよって・・」と泣きながらコメントをした。
ちなみに、やすしが亡くなった病院は「摂津ひかり病院」といい、奇しくも娘のひかりと同じ名前であった。
これらの経緯からすると吉本を解雇されて以降、特に晩年は、やすし自身の人生は不遇で終わったといえる。
<最後の別れ>
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では、多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの相方だった西川きよしが「ゆっくりしいや、ゆっくり休んでや」と泣き崩れながら弔辞を読み上げた。また師匠の横山ノックも「君の芸は師匠の僕をとっくに追い越していたよ。やすきよの漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ。」と弔辞を読み上げた。出棺の時、ファンからは「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上り、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志で、愛艇を置いた宮島競艇場で「散骨の儀」が行われ船上から散骨された。
<受け継がれる芸風とものまね>
現在、生前からやすしのものまねをしていた大平サブローが、西川きよしと「新やすし・きよし」を結成している。
近年、生前のその芸を「天才漫才師」と崇めたテレビ特番が多く組まれている。(後述#横山やすしを演じた俳優参照)
<最後の破滅型芸人>
やすしの人気絶頂期は、既に些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまうテレビ時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述で書かれた数々のトラブルはあくまでネタである、というスタンスを貫こうとしたやすしは、この時代の流れに最後まで抗おうとしていた懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型芸人」と称される事もある。また、毒舌も短気な性格も上岡龍太郎、やしきたかじん、初代・桂春団治に通じるものがある。
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1990年に芸人仲間の若井ぼん・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へ、やすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折した。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビス本人はその時点で、もうやすしを怒る気もなかった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。
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<芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか>
1991年に内田裕也主演の「魚からダイオキシン」で芸能界に復帰。
活動の場をVシネマ等に移す。学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。 1992年参議院選挙の比例代表区に風の会から立候補するも落選。直後の会見では「この党に投票しなかった国民は、アホや! ドアホや!」と吐き捨てた。その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明)を受けて重傷を負い表舞台からはすっかり身を引いてしまった。
この暴行事件でやすしは失語症となるが、驚異の回復力で復活をする。
1993年に「やすしを囲む会」を開いて、知人を含め100人は出席した。しかし、きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本興業からの圧力で彼らは出席出来なかった。
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1994年頃から、腹水が溜まるなど体調が悪くなり、肝硬変と診断され入院したが、無断退院したりとトラブルを起こした。
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若手の頃に可愛がってもらった宮川大助・花子はうめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしの事を思い出して泣き出し、観客もほぼ全員が号泣し、やすしの死を偲んだ。また、木村政雄は「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てる訳にはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除すると述べ、のち正式に免除された。当時吉本の専務だった林裕章は「人の話を聞かんから、こうなった」と真剣な表情でコメントした。また、師匠の横山ノックは、やすしの遺体が安置された摂津警察署へ訪れ、悲しみの対面をし「最後まで警察の厄介になりよって・・」と泣きながらコメントをした。
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<受け継がれる芸風とものまね>
現在、生前からやすしのものまねをしていた大平サブローが、西川きよしと「新やすし・きよし」を結成している。
近年、生前のその芸を「天才漫才師」と崇めたテレビ特番が多く組まれている。(後述#横山やすしを演じた俳優参照)
<最後の破滅型芸人>
やすしの人気絶頂期は、既に些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまうテレビ時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述で書かれた数々のトラブルはあくまでネタである、というスタンスを貫こうとしたやすしは、この時代の流れに最後まで抗おうとしていた懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型芸人」と称される事もある。また、毒舌も短気な性格も上岡龍太郎、やしきたかじん、初代・桂春団治に通じるものがある。
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横山 やすし(よこやま やすし、 1944年3月18日-1996年1月21日)
かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。
本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。身長163cm。(←本人談)
<人物>
高知県宿毛市沖ノ島出身。大阪府堺市堺区に育つ。
愛称は「やっさん」。結婚暦2回、離婚歴1回のバツイチ。俳優の木村一八は長男。漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかりは次女(この二人は異母兄妹)。長女がいるが一般人の為、殆ど公開されていない。
西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に、中学時代の同級生で競艇選手(現選手会長)の野中和夫がいる。顔がミッキーマウスと師匠の横山ノックの漫画トリオ時代の仲間の上岡龍太郎に似ている。
<天才少年漫才師誕生>
少年時代から、ラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮。1959年、堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりから漫才台本の書き方を教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで少年漫才師として、その年の5月に角座でデビュー。
当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。しかし、ネタが中学時代の思い出話がメインだった為か、それが裏目となり、人気も次第に衰退し、相方の岡田が辞めたいと言い出した為、1961年にコンビ解消する。
<横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ>
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか。いっぺん遊びに来い。」と誘われ、また、やすし本人も横山エンタツより続く漫才の名門屋号・「横山」姓への憧れがあったことから、改めてノックに弟子入り、「横山やすし」となると同時に吉本興業に移籍(秋田に弟子入りすると了解済み)。厳しい修行だったが、ノックからの指示を完璧にこなした。
<やすきよ結成と最愛の父の死と最初の過ち>
数回のコンビ結成〜解消を経て西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。過去の漫才の相方は、弟弟子の横山プリン、レツゴー三匹の正児(いずれも芸名は横山たかし)。そんな絶頂の時、悲劇が起こる。
1969年11月、最愛の父である庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏み切りを渡ろうとした時に列車にはねられ、その7日後に、意識が戻ること無く他界した。その10日後に長男・一八が誕生。父に息子を見せて上げたかったが、かなう事が出来なかった。更に翌年に、事件を起こしてしまう。
1970年、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期の謹慎処分を受ける。その後の、自らのライフワークであるモーターボート(競艇)のアマチュア選手権大会に優勝したことで、当時「病気療養中」とマスコミには見解していたやすしのマネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという話など、通常なら恥晒しとされる話が武勇伝として語り継がれているのも彼の特徴である。
<競艇選手の夢>
数回のコンビ別れを繰り返していた当時、一度引退を考え競艇選手になろうと決意し受験したが、視力が低かったため不合格になり、父の庄吉にも反対され、友人の野中和夫を口説いて競艇学校に通わせて競艇選手にさせ、自分の夢を友人に託したという逸話がある。しかし、笹川良一から特別にアマチュアボート選手のライセンスが交付されている。
<相方の参議院選出馬と度重なるトラブル>
1983年には日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔っ払いながら生放送に出演したのみならず暴言を発したことで問題になったこともあった。また「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全く喋らなかったことも。しかし、1984年10月に番組のすっぽかしをやってしまい降板させられ、吉本からは無期限謹慎処分も受ける。
1986年に相方・西川きよしが参議院選挙に出馬し、見事当選。そして当選後に行われた『復活漫才』を以て「やすし・きよし」は活動を事実上停止する事となった。やすしは、きよしの政界進出を"裏切り"と反発していたと伝えられる。その反動が大きく、度重なるトラブルを起こし、タレントとしての生命も徐々に薄れて行く。
1988年『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ製作 日テレ系)で酒気帯び出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切り、ゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタをした事も有名である。この事件が原因で番組を降板する。その年の11月、長男の木村一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こし、その引責で無期限謹慎を自ら申し出る。
<芸能界復帰と事実上の追放>
年が明けた1989年3月、芸能界に復帰。きよしが司会の『すてきな出逢い いい朝8時』(MBS制作 TBS系)にゲスト出演。きよしから「今度こそ、心を入れ替えてがんばりや。みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言。この時、既に吉本から「今度不祥事を起こした場合は解雇する」と最後通告を受けていた。
しかし、それを通告されていたにも関わらず、わずか1ヶ月後、やすしが芸人として更にタレントとしての生命を落とす決定的な不祥事を起こしてしまう。同年4月、飲酒運転によるバイクとの人身事故を起こして、バイクに乗っていた男性に怪我を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ。」と慰めたと言う。警察の取調べの結果、アルコールが検出された。その知らせを受けた吉本興業は、やすしを解雇した。実は、やすしが事故直前にゲスト出演していたラジオ大阪の「入川保則の日産さわやか文庫」の収録中にウイスキーを飲んでいた事やホテルプラザで前日宿泊時から飲酒していたとラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった。やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
当時、吉本の社員で解雇を言い渡した木村政雄は、報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに「そうですね。我々のフォローもとっくに超えている。これ以上、騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われる」と真剣な表情でコメントをした。また、やすしが様々なトラブルを起こしたときかばい続けてきた会長の林正之助は報道陣からの問いで「やすしは、問題ばっかり起こし続けるので、反省の色がない。これ以上、面倒見切れんし、世間も許さんでしょう。」と匙を投げた格好でコメントした。また、師匠のノックは「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」と淡々とした表情でコメントした。解雇されたのを聞いた西川きよしは「もう、殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません。」と厳しいながら悔しさを露わにしていた。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすし・きよし」は事実上解散となる。また、松竹芸能、渡辺プロダクション等のほかのプロダクションも獲得の意向がなく、芸能界を事実上追放される。さらに吉本からは、一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は、「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所「しょうがないやろうな。」との一言であっさりと決定したと言う。解雇通知書を発行したのも林裕章である。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで、会社まできて下さい。」と言われ、奥さんの啓子さんと共に吉本を訪れ、木村から「契約関係を解消します。」と通告され、やすしは最初は詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を持ってうち(吉本)のタレントではなくなりましたから。」と通告をし、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は、当日、体調不良で出社していなかった為、やすしは、林に詫びる事が出来なかった。もし、林が出社していてやすしが懸命に謝罪をして、許しがあれば、吉本に再び居れたかもしれなかったはずである。


かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。
本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。身長163cm。(←本人談)
<人物>
高知県宿毛市沖ノ島出身。大阪府堺市堺区に育つ。
愛称は「やっさん」。結婚暦2回、離婚歴1回のバツイチ。俳優の木村一八は長男。漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかりは次女(この二人は異母兄妹)。長女がいるが一般人の為、殆ど公開されていない。
西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に、中学時代の同級生で競艇選手(現選手会長)の野中和夫がいる。顔がミッキーマウスと師匠の横山ノックの漫画トリオ時代の仲間の上岡龍太郎に似ている。
<天才少年漫才師誕生>
少年時代から、ラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮。1959年、堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりから漫才台本の書き方を教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで少年漫才師として、その年の5月に角座でデビュー。
当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。しかし、ネタが中学時代の思い出話がメインだった為か、それが裏目となり、人気も次第に衰退し、相方の岡田が辞めたいと言い出した為、1961年にコンビ解消する。
<横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ>
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか。いっぺん遊びに来い。」と誘われ、また、やすし本人も横山エンタツより続く漫才の名門屋号・「横山」姓への憧れがあったことから、改めてノックに弟子入り、「横山やすし」となると同時に吉本興業に移籍(秋田に弟子入りすると了解済み)。厳しい修行だったが、ノックからの指示を完璧にこなした。
<やすきよ結成と最愛の父の死と最初の過ち>
数回のコンビ結成〜解消を経て西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。過去の漫才の相方は、弟弟子の横山プリン、レツゴー三匹の正児(いずれも芸名は横山たかし)。そんな絶頂の時、悲劇が起こる。
1969年11月、最愛の父である庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏み切りを渡ろうとした時に列車にはねられ、その7日後に、意識が戻ること無く他界した。その10日後に長男・一八が誕生。父に息子を見せて上げたかったが、かなう事が出来なかった。更に翌年に、事件を起こしてしまう。
1970年、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期の謹慎処分を受ける。その後の、自らのライフワークであるモーターボート(競艇)のアマチュア選手権大会に優勝したことで、当時「病気療養中」とマスコミには見解していたやすしのマネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという話など、通常なら恥晒しとされる話が武勇伝として語り継がれているのも彼の特徴である。
<競艇選手の夢>
数回のコンビ別れを繰り返していた当時、一度引退を考え競艇選手になろうと決意し受験したが、視力が低かったため不合格になり、父の庄吉にも反対され、友人の野中和夫を口説いて競艇学校に通わせて競艇選手にさせ、自分の夢を友人に託したという逸話がある。しかし、笹川良一から特別にアマチュアボート選手のライセンスが交付されている。
<相方の参議院選出馬と度重なるトラブル>
1983年には日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔っ払いながら生放送に出演したのみならず暴言を発したことで問題になったこともあった。また「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全く喋らなかったことも。しかし、1984年10月に番組のすっぽかしをやってしまい降板させられ、吉本からは無期限謹慎処分も受ける。
1986年に相方・西川きよしが参議院選挙に出馬し、見事当選。そして当選後に行われた『復活漫才』を以て「やすし・きよし」は活動を事実上停止する事となった。やすしは、きよしの政界進出を"裏切り"と反発していたと伝えられる。その反動が大きく、度重なるトラブルを起こし、タレントとしての生命も徐々に薄れて行く。
1988年『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ製作 日テレ系)で酒気帯び出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切り、ゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタをした事も有名である。この事件が原因で番組を降板する。その年の11月、長男の木村一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こし、その引責で無期限謹慎を自ら申し出る。
<芸能界復帰と事実上の追放>
年が明けた1989年3月、芸能界に復帰。きよしが司会の『すてきな出逢い いい朝8時』(MBS制作 TBS系)にゲスト出演。きよしから「今度こそ、心を入れ替えてがんばりや。みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言。この時、既に吉本から「今度不祥事を起こした場合は解雇する」と最後通告を受けていた。
しかし、それを通告されていたにも関わらず、わずか1ヶ月後、やすしが芸人として更にタレントとしての生命を落とす決定的な不祥事を起こしてしまう。同年4月、飲酒運転によるバイクとの人身事故を起こして、バイクに乗っていた男性に怪我を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ。」と慰めたと言う。警察の取調べの結果、アルコールが検出された。その知らせを受けた吉本興業は、やすしを解雇した。実は、やすしが事故直前にゲスト出演していたラジオ大阪の「入川保則の日産さわやか文庫」の収録中にウイスキーを飲んでいた事やホテルプラザで前日宿泊時から飲酒していたとラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった。やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
当時、吉本の社員で解雇を言い渡した木村政雄は、報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに「そうですね。我々のフォローもとっくに超えている。これ以上、騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われる」と真剣な表情でコメントをした。また、やすしが様々なトラブルを起こしたときかばい続けてきた会長の林正之助は報道陣からの問いで「やすしは、問題ばっかり起こし続けるので、反省の色がない。これ以上、面倒見切れんし、世間も許さんでしょう。」と匙を投げた格好でコメントした。また、師匠のノックは「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」と淡々とした表情でコメントした。解雇されたのを聞いた西川きよしは「もう、殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません。」と厳しいながら悔しさを露わにしていた。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすし・きよし」は事実上解散となる。また、松竹芸能、渡辺プロダクション等のほかのプロダクションも獲得の意向がなく、芸能界を事実上追放される。さらに吉本からは、一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は、「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所「しょうがないやろうな。」との一言であっさりと決定したと言う。解雇通知書を発行したのも林裕章である。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで、会社まできて下さい。」と言われ、奥さんの啓子さんと共に吉本を訪れ、木村から「契約関係を解消します。」と通告され、やすしは最初は詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を持ってうち(吉本)のタレントではなくなりましたから。」と通告をし、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は、当日、体調不良で出社していなかった為、やすしは、林に詫びる事が出来なかった。もし、林が出社していてやすしが懸命に謝罪をして、許しがあれば、吉本に再び居れたかもしれなかったはずである。



