松本人志の著書『遺書』『松本』(共に週刊朝日で連載したものをまとめたもの)は出版界では異例の550万部の売り上げを記録。タレント本売り上げでは、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』に次ぐ歴代2位を今(2006年現在)も守っている。
他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。
浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。
また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。
吉本を代表する大物コンビにも関わらず、罰ゲームなどで体を張ったり(真冬の海に裸で入る、竹刀でしばかれる等)、いじられ役になる事が若手芸人に負けず劣らず多い。が、松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。
<略歴>
松本人志と浜田雅功は潮小学校、大成中学校の同級生であったが、二人が親密になりはじめたのは同じクラスになった中学2年生の頃。
二人は同級生らと放送部に入る。高校は別だった。お互いを「はまちょん」「まっつん」と呼び合う仲だった。
小学生の頃、初めて松本が浜田を目撃した時、浜田の格好は白いパンタロンにパーマ頭でサンドバッグみたいな鞄を持っており、松本曰く、「モンゴルからの留学生や思た」「イタリア人かと思た」(このエピソードを語るたびに毎回違う)。
逆に浜田の松本に対する印象は「正露丸(日焼けで真っ黒のため)」だったらしい。小学校での松本は、同級生の伊東くんと森岡くんとトリオ“コマ第三支部”を組み、その頃から漫才やコントを披露していた。浜田も当時からコンビを組んでいた。
中学の頃、浜田と松本の相方・伊東がケンカし、浜田が勝利。「まっつん、行こうや!」という浜田の言葉に、松本は一瞬どうしようかと考えたが、浜田が歩き出した方角が浜田の自宅とはまったく反対だったことと、伊東の家がすぐ近くだったことも手伝って、知らず知らず浜田の方に付いていった。ダウンタウン誕生の瞬間である。この時の事情は、後に伊東が語ったワニブックス『放送室の裏』に詳しい。
浜田は高校で全寮制の学校「日生学園」に入れられた為、しばらくの間二人は離れ離れになった。厳しい学校だったらしく、何度も脱走を繰り返したと本人が話している。例えば、トイレを素手で洗わせられるほど。今田耕司はこの学校の姉妹校の浜田の二年後輩だが、こちらは脱走に成功し、退学して夜間高校に入りなおした。
ちなみに、浜田はこの学校にいたということが非常にコンプレックスであるらしく、番組で担任の先生が登場するなどしてネタにはされているものの、浜田自身の口から学校名が出たのを松本は一度も聞いたことがないという。脱走しては松本に電話し、お金を借りて飯を食わせてもらうという生活を続けていた。
一方の松本は公立の高校「尼崎工業高校(機械科)」に入学し運動会の応援団長をしていたが、徐々にチンピラ化していき、学校をサボって中学時代から続いていた彼女とずっと遊んでいた。彼女がアルバイトに行く時は自転車の荷台に彼女を乗せ、送り迎えをしていたという。また、その彼女とラブホテルに行った際、ライトカバーの無い剥き出しの電球に自分の着ていた服を掛けたら、電球の熱でその服が燃えてしまい、ボヤを起こしそうになった……という話をかつてネタにしていた。
また、浜田と2人で買い物に行った際、浜田の所持金が少なかったので松本が3千円を貸してやったのに、いつまでも浜田が返さない……というネタをやり続けたこともある。
卒業後の1982年、競艇選手の試験に落ちた浜田がある日、すでに地元の印刷工(アルバイト雑誌の印刷)に就職が内定していた松本を尼崎の公園に呼び出し、雑談の中で「なぁまっつんよ、あの話覚えてるか? “二人で吉本入れへんか?”言うてた、あの話」と吉本の吉本の芸人養成所「NSC」に誘った(ダウンタウンは大阪NSCに一期生として入る)。
芸能界に入った二人は先輩芸人からは「お前らなかなかおもろいやないか」と認められていたものの、客からは全くウケない日々が続き「帰れコール」を浴びたこともあった。自分たちの舞台を、自分たちで作って客引きするも全く客が入らず、「タダでもええから見て」と苦労する日々が続く。(皮肉にもお金がなく松本が就職先として決まっていたアルバイト雑誌でアルバイトを探す事態になった。)
しかしデビュー6年目の1987年4月、二人の努力が実り、当時関東を中心に社会現象を巻き起こしていた番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)に対抗して毎日放送が関西ローカルで制作した『4時ですよーだ』という初の看板番組でブレイク。関西を中心にアイドル的人気を得るようになる。1989年、『4時ですよーだ』終了半年前に東京に本格的に進出し、『4時ですよーだ』の出演時間も徐々に限定されたものになっていった。
『恋々ときめき倶楽部』や『全員出席!笑うんだってば』などの低視聴率番組に出演し東京の厳しさを知るが、ウッチャンナンチャンらと共演した深夜コント番組『夢で逢えたら』や、現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という看板番組を得て徐々にブレイク。やがて明石家さんま・島田紳助と並ぶ吉本代表の大御所芸人となり、現在に至る。


他の著書に、『図鑑』『松本』『松本人志 愛』『松本坊主』『シネマ坊主』『シネマ坊主2』『松本裁判』『プレイ坊主』『松本人志の二元論 好きか、嫌いか』『定本・一人ごっつ』『哲学(島田紳助との共著)』などヒット多数。番組本以外は最低でも20万部以上売れるベストセラー作家でもある。どの著書も松本の突飛な発想が好評で、注目を集めた。
浜田雅功がメインボーカルをつとめる、H Jungle with tの1st single『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるセールスを記録した。その後奥田民生プロデュースでも楽曲を発表した。
また、2004年11月「浜田雅功と槇原敬之」というスペシャル・ユニットで松本作詞のクリスマスソング『チキンライス』をリリースした。 また二人が絡んでの企画モノの音楽活動も数多くこなしており、ヒットを多発している(ゲイシャガールズ、エキセントリック少年ボウイオールスターズ、Re:Japanなど)。
吉本を代表する大物コンビにも関わらず、罰ゲームなどで体を張ったり(真冬の海に裸で入る、竹刀でしばかれる等)、いじられ役になる事が若手芸人に負けず劣らず多い。が、松本は「世間は、自分たちが若手をいじめて楽しんでいると思っている」と時々ぼやく。
<略歴>
松本人志と浜田雅功は潮小学校、大成中学校の同級生であったが、二人が親密になりはじめたのは同じクラスになった中学2年生の頃。
二人は同級生らと放送部に入る。高校は別だった。お互いを「はまちょん」「まっつん」と呼び合う仲だった。
小学生の頃、初めて松本が浜田を目撃した時、浜田の格好は白いパンタロンにパーマ頭でサンドバッグみたいな鞄を持っており、松本曰く、「モンゴルからの留学生や思た」「イタリア人かと思た」(このエピソードを語るたびに毎回違う)。
逆に浜田の松本に対する印象は「正露丸(日焼けで真っ黒のため)」だったらしい。小学校での松本は、同級生の伊東くんと森岡くんとトリオ“コマ第三支部”を組み、その頃から漫才やコントを披露していた。浜田も当時からコンビを組んでいた。
中学の頃、浜田と松本の相方・伊東がケンカし、浜田が勝利。「まっつん、行こうや!」という浜田の言葉に、松本は一瞬どうしようかと考えたが、浜田が歩き出した方角が浜田の自宅とはまったく反対だったことと、伊東の家がすぐ近くだったことも手伝って、知らず知らず浜田の方に付いていった。ダウンタウン誕生の瞬間である。この時の事情は、後に伊東が語ったワニブックス『放送室の裏』に詳しい。
浜田は高校で全寮制の学校「日生学園」に入れられた為、しばらくの間二人は離れ離れになった。厳しい学校だったらしく、何度も脱走を繰り返したと本人が話している。例えば、トイレを素手で洗わせられるほど。今田耕司はこの学校の姉妹校の浜田の二年後輩だが、こちらは脱走に成功し、退学して夜間高校に入りなおした。
ちなみに、浜田はこの学校にいたということが非常にコンプレックスであるらしく、番組で担任の先生が登場するなどしてネタにはされているものの、浜田自身の口から学校名が出たのを松本は一度も聞いたことがないという。脱走しては松本に電話し、お金を借りて飯を食わせてもらうという生活を続けていた。
一方の松本は公立の高校「尼崎工業高校(機械科)」に入学し運動会の応援団長をしていたが、徐々にチンピラ化していき、学校をサボって中学時代から続いていた彼女とずっと遊んでいた。彼女がアルバイトに行く時は自転車の荷台に彼女を乗せ、送り迎えをしていたという。また、その彼女とラブホテルに行った際、ライトカバーの無い剥き出しの電球に自分の着ていた服を掛けたら、電球の熱でその服が燃えてしまい、ボヤを起こしそうになった……という話をかつてネタにしていた。
また、浜田と2人で買い物に行った際、浜田の所持金が少なかったので松本が3千円を貸してやったのに、いつまでも浜田が返さない……というネタをやり続けたこともある。
卒業後の1982年、競艇選手の試験に落ちた浜田がある日、すでに地元の印刷工(アルバイト雑誌の印刷)に就職が内定していた松本を尼崎の公園に呼び出し、雑談の中で「なぁまっつんよ、あの話覚えてるか? “二人で吉本入れへんか?”言うてた、あの話」と吉本の吉本の芸人養成所「NSC」に誘った(ダウンタウンは大阪NSCに一期生として入る)。
芸能界に入った二人は先輩芸人からは「お前らなかなかおもろいやないか」と認められていたものの、客からは全くウケない日々が続き「帰れコール」を浴びたこともあった。自分たちの舞台を、自分たちで作って客引きするも全く客が入らず、「タダでもええから見て」と苦労する日々が続く。(皮肉にもお金がなく松本が就職先として決まっていたアルバイト雑誌でアルバイトを探す事態になった。)
しかしデビュー6年目の1987年4月、二人の努力が実り、当時関東を中心に社会現象を巻き起こしていた番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)に対抗して毎日放送が関西ローカルで制作した『4時ですよーだ』という初の看板番組でブレイク。関西を中心にアイドル的人気を得るようになる。1989年、『4時ですよーだ』終了半年前に東京に本格的に進出し、『4時ですよーだ』の出演時間も徐々に限定されたものになっていった。
『恋々ときめき倶楽部』や『全員出席!笑うんだってば』などの低視聴率番組に出演し東京の厳しさを知るが、ウッチャンナンチャンらと共演した深夜コント番組『夢で逢えたら』や、現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という看板番組を得て徐々にブレイク。やがて明石家さんま・島田紳助と並ぶ吉本代表の大御所芸人となり、現在に至る。
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